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80年代の初めから10年間、サンフランシスコに暮らしていました。 もし自分が自分でいられるような街がアメリカにあるとしたら、サンフランシスコこそ、その街なのではないかと、心から思っています。不思議な魔法の街、決して飽きることのない街、 丘を登ったり降りたり、歩きまわることのできる街。 私は、そこに住んでいる間ずっと、まるで故郷にいるみたいだと感じていました。フランスにいるときよりも、のびのびとしていられたので(もっと自由でいられると感じられたので)、 私の芸術家としての人生がそこではじまったと いうことは確かです。に間違いありません。しても不思議ではないでしょう。 最初はプレシディオ(注:)で生きたモデルを使って独学で絵を描くことを始め、その後パリのバックにある市民講座の絵画教室で2年間学びました。ボーザールでは夜間講座をとりました。 よりクラシックな技法である、チャコール、サングイヌ(多血質?)、油絵の具、コラージュ手法を使って、かなりの数の作品を作りあげました。今でもその何年かの間の作品を考えることがあります。?? プロのアーティストとしてやっていこう、と心に決めたのは、1997年のことでした。そしてそれからというもの、毎日作品を作るという必要性欲求?は、私の人生に不可欠なものになりました。 この時期に、ソフトパステルが、それ以前にも何度か使ったことはあったのですが、指を使って描いている最中の、 官能的でやわらかい触感が気に入ったので、愛用の画材となりました。 同じ時期にカラリスト(色彩を使って表現する人)になりました。
1997年から2001年までは静物画を描いていました。そのころ、オブジェクトは私にはまだそのままの形で現われてきていました。見えていました たとえ私がそれぞれのオブジェクトを現代的なの背景のもとで用いるにしても、人類の文明の起源が表現されるように、彼ら独自の存在感を持たなければならないと考えていました。 1997年から1999年までは、『幾何学的バックグラウンド』と呼んでいた最初のスタイルで描いていました。これは、幾何学的な形を背景に配置した静物画のことで、 そうすることによって 背景と静物は一つに混ぜ合わされ、色を通して調和されるというものです。 第二のスタイルは1999年から2000年にかけての、『黒のバックグラウンド』をテーマにしたもので、(オブジェクトは)光に照らされた部分を強調し、影の部分が少しずつ黒い紙の背景に消えていくように描いていました。 この光、これなしでは私たちは生きられないし、この光、これなしではわたしたちは闇の中に戻っていくことでしょう。 第三のスタイルは『セザンヌ風』と呼んでいました。 色とりどりの一筆ずつが調和を生み出しているのですが、 それは他の面では、量感と、絵に必要とされる強度を与えることになりました。
2000年には、わたしの絵の描き方に影響を与えることになる、素晴らしいイギリス人肖像画家、ケン・ペーヌとの出会いがありました。彼の絵画、特にパステル肖像画に見られる力強さが大好きです 一度でも彼に会った人は、彼の容貌、カリスマ、教えているときに彼の口から飛び出してくるイギリス風ユーモア など、ずっと忘れられなくなることでしょう。 彼に出会った頃、私はその頃に描いていた自分の絵 上のほうで書いたような異なったスタイルから構成されるものがtoo muchであると感じていて、 そこからもっと自由になりたいと願っていました。 ケンが私に可能性を与えてくれました。彼は私に『体と魂を使って絵を描けるようにならなきゃ』とよく言ったものです。 彼から見ると、私は彼の指摘をいちいち気に留めすぎるそうで、『自分の中に準備はできているのだから、そのまま(思うとおりに)すればいいんだよ』『怖がらないで』といわれたものです。 このことは私により表現的な肖像画――身体を提案するような――を描かせるようになりました。 私は人が期待するような肖像画を描きあげることを目指さずに、顔のほかの部分、実際には見えない部分で、しかも多分もっともっと重要であろうと思われるところをなぞりました。 同じ時期に、肖像画を良く描いていました、自分で『叙情的な構造』と呼んでいた新しいスタイルで、2003年にできあがったスタイルです。一本の線をずっとつなげていって自由な形を形作り、色を塗り、 色彩の見え方によって、 静物画、花、顔などなど、見る人に自由に想像を喚起させるものです。 ときには線そのものがが描くものの特徴を語り、色彩が相互作用で働くこともありますが。
2005年の夏の間、油絵を再開しました。 私は肩のloosing up?力が抜けてきているなと感じていて、Kenが話していた『レチェ・プリゼ?』を理解することができたと感じました。 新しい抽象的なアプローチは、 より視覚的形状やそのアウトラインを提案してはいたけれども、私が今までに上で述べたスタイル全てを含んでいるように見えました。 それとともに、色で構成される抽象画の中に、私は文字と幾何学的な形を混ぜてみました。 あるときには、人はお互いに調和し 絵を生き生きとさせる動きを与えようとしている色 だけを見ることができる
ニコル・M・マチュー (2006年11月)
推薦文
2003年、アーティスト・オープン・ステュディオの期間に、パリ13区にある彼女のアトリエに寄りました。彼女は私に、スタジオは5階にあるので、私の年齢を考えて、 来られなくても気にしないでねと言っていました。 ああ、でも、一秒も後悔しませんでした。 私は自分が見つけたものに圧倒されて、かなり長い間、彼女のアトリエのそこここに置かれたものを全て見て回りました。ニコル・マチューの作品の発見は、 私には本当に驚きでした。とても豊かで 様々なスタイルがあること、またとりわけ、そんな短期間にそれら全てが展開されたということを目の当たりにしたので。 そして、今私は、大きな喜びと熱意をもって、彼女がこの空想的で実りの多い探索へと、決して留まることなく歩み続けることを奨励 期待しています。 2003年、パリにて、メディオーニ夫人
画家でパステル画家であるマチューの作品を見ていると、彼女の具象画から抽象画への変遷を見たとき、彼女の作品全体が、互いにとてもつながりがないとか、 もしくは、方向(スタイル)が多すぎるではないかと考える人もいるかもしれない。 しかしながら、彼女はいつでも内なる目(内側の自己)に導かれているように見える。内なる目というのは、つまりその秘密のパートと同様に、 彼女がたどっている一本の継続する線に注意を向けている内なる目のことである。
彼女の仕事は、絵そのものや、探検や感情的な探索の中で、沢山の動きにいつも目を開いているにもかかわらず、非常に冒険的大胆である。 アメリカ、サンフランシスコ、大好きな都市への1980年の出発、および創造的なアイデンティティの発見; それに続いて、海の潮の干満と太陽の島モーリシャス島…彼女の母方の家族の霊的な起源のある場所へ行ってから。 彼女は自分自身のキャンバスに描いているが、かつてフランシス・ポンジュがそれに関して書いたように、不思議の国のアリスの冒険そのもの、にたりと笑うネコ―― デリケートな存在――である。しかしこの猫なしには、宇宙に向かう物質はゆっくりと消滅していくのだ。それを私たちに思い出させるように着色されている 。 ジャクリーン・ドローネ・オローニュ、芸術評論家、芸術作品写真家、およびブランクーシ専門家; 2005年1月
寄贈 2006年1月 幾何学形状バックグラウンドの「青いセラミックとオレンジ」と呼ばれるパステル画をパリのLigue du Cancerのプホール教授(癌の研究機関の委員長)の元へ寄贈しました。 それはパリ13区のコルヴィザール14番地にある建物のレセプションに掛かっています。
2005年9月、 イギリスの大学、大西洋大学――そこは大学レベルの研究を許された学生のためのカレッジ――に、4枚の小さな油絵を寄贈。 大西洋大学は、自身もそこで学び、今は学校をオーガナイズされている精神分析医、および美術愛好家であるフランソワ・ポウル・キャバリエ氏によってオーガナイズされたカレッジです。 彼らの行動は世界的に知られおり、ネルソン・マンデラ氏も名誉会員ひとりです。 2006年からは彼らの活動はウェブサイトwww.artofpeace.uwcnetwork.orgでも見ることができます。
2005年6月、「青い肖像」という題名のパステル画が、フランスのAssociation Talentaのためのオークションに寄付されました。これは、マダガスカルに、 すべての芸術分野におけるマダガスカル人の芸術家を昇進させるように、国際的な美術学校を設立するのを賛助するのが目的のオークションでした
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